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2012/04/19 21:34
一昨日、高校時代からの友人((所謂“親友”))のお母様が急逝されました。
以前より病を患い、入退院を繰り返していたようです。
ようです、というのは、彼女からの短いメールから推察した私の想像からの言葉ゆえ。
昨日はお通夜で、出席して参りました。
危うくスルーしてしまうところで、あばばば;; でした(苦笑)。
仕事から帰って一休みしたところでやっとメールチェックして、蒼白になり速攻、友人にメール⇒Telしてお通夜の場所と時間を知ったと言う…;; お通夜の時間二時間前の出来事でした←
場所は住所から地図を調べてみると、意外と近所(車で10〜15分位)でしたが、道に暗い私。親のアドバイスやら、地図の道やらを脳内シミュレートして、運転しました。
兎に角、その時の思いたるや「行きはよいよい、帰りは怖い」で構わんわー!(笑)
お式に遅刻さえしなければ、後はどうにでもなるという気分で。
幸い、斎場の看板がそこかしこにあって、夕暮れではあってもまだ道が明るい時間であってくれたので、20分前には到着出来ました。
家族葬ということで、本当に家族(友人夫妻、兄家族)と非常に近しくしていたご家族と私、位の人数でこぢんまり、それゆえとても密度の濃い小一時間でした。
お式では、友人よりも私や知人のおばさまが涙を見せていて、友人家族は皆落ち着いておられました。
この時までに随分泣いたんだろうな…と思いました。
落ち着いたらまた、色々話するね、聴くね、と言い合って夕べは別れました。
常日頃から“(命の)終焉”を我が事として念頭に置いて生きています。
言い換えると、何時死んでも悔いのない生き方をしています。
生きとし生けるもの全て、須らく命尽きる時が来るのです。
それを如何にして迎えるか、(死ぬ)当人も、周りも。
これはももを送った時も思いましたし、昨日のお式でも思いましたし、日々のニュースを観ている時にもあれこれ考えを巡らせます。家族で会話することもしばしば。
→なんだかこの国は、「死」に対して避けて通る風潮があって、個人的にはそれはどうなのかと。
命を考える時、死は必然な訳で。
避けて通るが故に、簡単に単純に死を軽く考える。だからこそ、自殺や殺人が横行するのかな、なんて。
また、延命治療が果たして全て正解か、ってことも考えさせられる昨今。
これまでもつらつら思ってきましたけれど、今の仕事柄、どうしても考えさせられてしまうのです。
あんまり深く書くと誤解を与えてしまいそうですし、私も今は頭がいつも以上に回っていない状態でこれを書いているので、この辺に留めますが。←
他人事としていられないですよ。
311のような災害でなくても、日常の交通事故や、先日の転倒でもあっけなく終わる事だってあるのですから。
そうすると、襟を正して生きることが必要になって来ると思う訳です。
話を戻しますが、友人のおばさまは、優しく控え目な方でしたので、新聞のお悔やみ欄にも掲載せずのひっそりとした“家族葬”を希望されたそうです。
今日のサブタイトルは聖書の詩篇より引用。教会での葬儀の際に必ず読まれる箇所。
私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは
労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
(詩篇90章10節)
真実だなあ…と、しんみりしてしまいます。
さて、またねーと車を発進。今来た道を反対方向に進めば我が家に到着……の筈が、ある意味、期待を裏切らない現象が!
曰く、
帰りは怖い
…辺りすっかり真っ暗闇(街頭はあっても)!
看板しか見ずに道を走っていなかった往路。…復路では帰りの指標がワカラナーイ\(´^_^;)/
ここか? ここなのか!? と自分に自問自答をしながら、えいやっ! と道をカンだけで数度曲がり(来た時に曲がった回数だけ)、暗く細い道(街頭はアリ)をひた走る……やっぱり 迷 っ た !
ここまで来ると悪足掻きでいよいよエライコトになるよりは、自分が判る道が判明するまで走ってまえ〜とばかりに、延々と道を真っ直ぐに(カーブだらけではあったけれど;)進み、ようやっとこ見覚えのある道路に辿り着き、倍の時間を掛けて帰宅しましたとさ〜(爆笑)。
結局、往復の道でその界隈を綺麗に一周してしまった事が判明
ε=\__(ΦωΦ)_ズコー
最早どこまでもオチがあるのが私の人生か。
いっそ昇天する時も、皆さんに笑いを提供して逝けたなら是本望←
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